あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

空間系の指導を見て

更新をサボる日があったら、それは体力的限界か体調不良のどちらかですのであしからず。

 

さて、空間系指導はどうか、ということで、最近信頼できる先生のところを見学させていただいた(思えば今の出講先も空間系指導だったような気がする…笑)。

 

空間系、とは、いわゆる「集団個別」と言われる形の指導で、詳細は以下を参照してください(手抜き)。

 

ip-honpo.hatenablog.jp

 

この形態の指導で実績を出されている優秀な先生のやりようを見させていただくことで、今後に資すると考えたのである。

 

大手個別指導塾(この先生の教室の隣にも見知った全国チェーン塾がある)での指導をいくつも見てきた身としては、この空間系指導はやはり可能性がある。高校受験においては偏差値65前後くらいまでは演習主体の学習になるから、四六時中講師が横に張り付く必要はない。解く姿勢、目線の動かし方などの解いている様子については張り付いていないと本当にはわからない部分もあるが、常に俯瞰して様子を伺いつつ解いたものを見ればある程度は確信を持って分かる(これは講師の経験と能力による)。

つまり、優秀な先生が回すのであれば十二分の指導効果が出る。さらに人件費は相当に浮くわけで、月謝を抑えつつ多くの演習時間を確保することが可能だ(同じ料金でも、大手個別チェーンの2倍以上の時間は取れる)。自分で勉強できるように、というのは指導の目標となる部分であり、もちろん先生が横に張り付く個別指導であれ、集団形式の授業であれ、このような空間系の指導であれ同じところを目指しているのだが、そこに至るまではそう簡単なものではない。何年もかかるのが普通であり、自覚的に勉強するようになったとして、それが「勉強になっているか」という点も気をつけなければならない。そうなると、大半の生徒にとっては塾という場で勉強に取り組む時間は多ければ多いほど得である。優秀な先生であれば、最初は徹底管理、そこから徐々に自主的に、そして先生の手を離れていく、という筋書きで指導をうまいことできる。

さらに、ただの質問対応だけでなく、指導側が引っ張る形式で授業なども挟める。単元の導入、リスニングとスピーキング、国語はマンツーマンの問答もできる。このへんは講師の力量次第なところもあるだろうが、必要なときに授業をし、必要なときに演習をつぎ込む。こういう自由が利くのは大きい。そして生徒にとって本当に必要なのは「内容をプロが確認(管理)する大量の演習」である。自分で考えて自分で動かないうちは学力はつかないのだから。

 

で、見させていただいて、この先生はやはりうまい。

生徒の座り姿勢、鉛筆の持ち方、字の巧拙や書き込みの位置バランス、そして取り組んでいる内容を見れば、生徒の現在の学力や意欲、姿勢など多くの情報が得られる。勉強が苦手、ともすればなるべくなら勉強したくない、とも思っているかもという生徒を10人以上同時に指導して回っていて、臨機応変に対応なさっている。指導のレベルは非常に高く、これが広まったら人気殺到するのだろうなぁと思った(実際、開校半年もしていないのに、私の前職の教室より生徒は多い)。

こういう指導の場合、やはり事前準備がひとつ肝になるだろう。準備段階で誰が何をやるか、そしてそれに取り組むのならその子はどういう感じで進むだろうかと想定をする(当然それは想定通りにいかないことが多いわけだがそれでも想定しておくのが大切)。そしてきちんと準備をしておく。そしてただ取り組ませるだけではダメで、途中経過を踏まえつつ、きちんと確認のテストを行う。そして自分が見ている中での演習時間が大量に確保できることを活かして、次の日(だいたいは翌日なり翌々日)に同じ内容の確認をした上で次にも進める。反復学習を生徒任せにせず確認できるのが非常に大きい。

 

ま、この形の指導の問題点は上記で何度書いたか分からないがとにかく「優秀な先生」であることに尽きる。

誰にでもできる、というわけではないから、地域のあちこちに同じ形の塾を作ることができない。したがって、この指導形態の認知度自体が高くならない。自習と何が違うのか、というのが外からでは分かりにくい。

 

裏を返すと、こういう形態で指導を行っていてうまくいっている塾は高確率で優秀な先生がされているんだろうなぁと思う次第である。

 

 

 

 

社会科指導の意識

社会科は、知識をもとにどう思考するかというのが指導しやすい科目だ(当然全ての科目がそういうものなので、私がしやすい、と思っているだけだが)。同時に、ある程度成長してから物事に対する好奇心を喚起するという点で、理科と並んで扱いやすい科目でもある。「なぜ」の追求がしやすいとでも言おうか。地理では多分に科学的、歴史は人の感情、公民は平等や自由という価値観への切り込み、そういう観点で生徒の知識欲求をさまざまな角度から刺激することができる。

 

ということを考えたときに、教科書や入試問題のレベルを研究して話せるようにする、教えられるようにするのはもちろん大切であるが、それを超えた範囲を踏まえた上で落とし込む、というのが必要でないか、と考えるわけだ。書かれていない範囲の知識への欲求を引き出し、そこからどうさらに思考・知識の深みを見せるか、また飛び込ませるか。

これが高校入試の段階で、国語における読解力ともに鍛えられていると、大学受験の社会科は教科書・参考書・映像授業で自走が可能になる。世界史は私の授業を受けた方がいいが(笑。

 

知識があればいいという問題でもなく、生徒から何をどう引き出すか、というのが指導する人間の力量になる。

 

センター試験過去問

例年とやり方は違うものの、今年はだいぶ早い段階からだいぶ古いセンター試験の問題を引っ張り出している。理由は色々とあるのだが、マーク型においても思考の持ちかたをあれこれと口出せるようにシステムを整えたのが大きい。

 

いつもだと、だいたいマークの練習は11月くらいに入れ始める。

センターの過去問に入る前提条件が、「時間をかけてでもちゃんと読めば内容はわかる」という力を身につけていることだ。そういう意味で、ある程度基礎的な力は備わっている生徒が多いことの証左とも取れなくもない。

 

ただし、だ。

ここから微調整が入っていく。私が選定した年度の問題(何年度のものかは企業秘密)にチャレンジしてもらう中で、まだ微妙、と判断できる部分を他の教材で補ったりオリジナル教材を投入して固め直したり、というのがこの夏から秋にかけて行われる。その中で、本文要約、品詞分解、完全口語訳、内容説明記述などを共通テストのみの理系の生徒でも取り組んでもらう。

 

文系の生徒であれば国語にはある程度時間を使えるので色々と手の打ちようがあるようにも見えるが、世の中そんなに甘くはない。

国語よりも英語や数学、日本史or世界史が合否の分かれ目になる大学も多いし、理系であれば国語に回す時間がほとんどないというのも珍しくない。

 

そんな中でスコアをまとめていく。

自分の指導科目で結果を出さないと次の仕事も約束されないのだが、優先されるべきは全体でスコアをまとめて合格できるかどうかであって、最悪国語で失敗してもダメージを最小限に抑えて進路が決まればそれでいい。

ミニマムラインをどう確保するか、欲しいラインにどう届くようにするか、受験指導としてはその辺りをわりと計算してやっているのである。

 

そして、そういう指導の中で、「頭をよくしてほしい」「興味関心を持ってほしい」という想いを少し籠めている。手法としては頭をよくする(≒頭をきちんと働かせて言葉を基に思考できるようにする)ようにしているので、前者の願いは順調にいってくれればある程度は達成されるが。

 

 

国語の指導

現代文の要約指導においては、その時の目的と生徒の出来具合に応じて添削の度合いが変わる。どれくらいの水準を求めるか、というのが変わってくる。

これが一斉指導の中であれば全員分の添削を一定の基準で行うが、指導として求められるのはあくまでも個々の学力や基準値に応じた添削だ。まずは内容の読解を優先させるか、読めているなら表現を詰めていくか、等を事細かに生徒一人一人の学力に応じて微妙なところを突いてやっている。

 

無論、要約ばかりやっているわけにもいかない。現実としては設問文をいかに読むか、選択肢をいかに読んでいかに文章と照合させ判断するか、その辺りの練習をどういうタイミングで入れるかというのも重要である。

 

その辺の呼吸を個別に掴み、入試日程から逆算してギリギリまで調整の繰り返しをしていく。

 

頭の中では常に誰にどうする、を計算している感じだ。

 

 

 

 

 

 

整理整頓

プリント整理を生徒に求めるのはなかなかに酷なことである、と私なんかは考えてしまう。なにせ、私自身がまともにできない。どこになんの書類があるのか、というのは全て把握しているのだが(それもおかしいと言われるが)、他者がそこから探そうとしても見つけるのは困難だろう、という荒れ具合である。これを領収証でもやらかしているのだから、確定申告の直前はチョーヤバいことがお察しいただけるだろう。←スケボー解説に毒される言葉選び

 

実際問題として、小中学生に対して、プリント学習を中心に課して、自分でプリントを管理せよというのは難しい。きちんと製本しておくなり、製本されている教材を使うなりすればその手間はない。余計なストレスを軽減するのは勉強における技術のひとつだ。

ただ、私個人としては、プリント整理を頑張れる生徒になってほしいと思って、小テスト系はバラで出てくる関係上、手出し口出ししてなんとかしようとする。お前が先にできるようにしろよと言われたら何も言い返せないが笑

私自身は、とりあえずクリアファイルに紙を入れる、というところまでは普通にやるので、生徒もせめてそれくらいは、と思う次第である。手紙とかプリントとか、クリアファイルにも入れずにカバンの中に適当にぶち込んでグシャっとなっている子はたくさんいるので、そういう小さい動きの一つができるようになるだけでいい。

 

そのような作法一つ整えるだけでも成績向上に繋がってくる。

大学受験指導で意識すること

高校受験は私立受験や一部公立校で県境をまたぐことはあるが、基本的には都道府県単位で考えるものである。したがって、ローカルにいかに精通しているかが塾として大切になる。その地域の受験事情にいかにマッチしているかが重要なので、全国展開しているかどうかは関係ない。

 

10のうち2〜3の情報だけをチェーンの中で転がしている、みたいなのも珍しくない。個人塾であっても何年も地域に根ざしていたり、その地域でずっとやっていた人が新しく興したところであれば、10の情報をきちんと持って十二分に活用できていたりする。

 

さて、大学受験は全国規模の競争なのだが、これもまた多分に地域性が見られる。都道府県、というよりは地方くらいで分かれてる感じだろうか。

 

全体として国公立志向か私立志向かの違い、推薦制度に対する意識、受験勉強を開始する時期の感覚、などなど。

しかしながら、あくまでもシステム的には全国に開かれているものなので、そこを履き違えないようにしたい。自分の地域的な感覚と、受験予定の大学の入試、さらにライバルになるであろう他の受験生の感覚、このあたりを色々と踏まえながらやっていかねばならない。

首都圏の塾予備校に出講している講師が地方都市で指導するのは、地方から首都圏に出てきたい受験生にとってはそういう意味でも恩恵が大きい。首都圏の受験生を知っているからこそ、その地域性にアジャストさせつつ首都圏のライバルと戦えるように、という指導ができるからだ。無論、逆も然りである。また、いわゆる東京圏・大阪圏以外でも有名大学は数多い。たとえば東北大学なら、東大にでもサクッと合格するレベルの受験生が多数いる。東北地方の雄でもあるし、世界的な評価も確か日本の大学でトップを取っている何かがあった気がする(うろ覚え)。首都圏から受けようとする人は単に東大から下げるという考えではNGだ。科目の多寡や問題の難易度など色々違いはあるとはいえ、気持ち的にはそういうレベルの受験生と競うつもりで戦う必要がある。

 

この辺りの情報や意識はローカル塾だと弱くなりがちである(全国チェーンでも結局は各地域においてのローカル勝負なので、感覚まで持ち得るのは難しい)。強く意識を持って何かしらの手を打つのが大事で、成功されてる方はだいたいうまくやってらっしゃる印象がある(Twitterやってるとそんな成功者ばっかり目にするから見識が偏る笑)。

 

「そんなん考える必要なし!」と思う方もいるだろう。あくまで上記は私が意識して見て考えてやっていることである。

地元の国公立に行くのが当たり前、という地域から東京の大学に出ようとすれば、受験勉強の間の空気感というか、心持ちというか、そういう面に気を払う必要がある。

無論、同じ地域でも学校によっていろいろな空気感がある。そういうのを見ながら気を配る。

 

受験は学力勝負なのは間違いないが、メンタル勝負でもある。メンタルということはもういろんな方向から生徒と組み合う、くらいになってくる。受験指導というのはそこまで見るものであって、小さい塾が生徒を引き受けるということはそういうことだと私は肝に銘じている。

 

主観的に読む

国語では文章を客観的に読まねばならない、と言われるが、これは半分正しいが半分は間違っている。客観的に文章を読むなんて行為ができる人はほとんどいない。

 

評論であれば、その内容が新鮮で何かを学ぶということもあれば、「またこれかよ」と思うこともあるし、「いやこの考えはおかしい」と思うこともある。客観的に読めという指導は、一歩間違えるとそういう思考の動きを潰してしまう恐れがある。読んで考える、その中で自分の考えを持つことはなんら悪いことではなく、むしろそれを繰り返すことで知識を増やし、自身の情動回路を豊かにし、ひとつのきっかけをもとに思考を深めることができるようになっていく。国語という科目に限らず、「ものを考える」ことをできるようにするのが勉強の大きな目的になり得るわけで、科目の究極はその力があれば入試も十分に突破ができる。

 

読める人は読む段階では主観にあふれている。読めない人は文章を読むだけで思考をしていないので、結局何を言っているのかわからない、となっているが故に読めていないのである。

「この意見に対してあなたはどう思う?」「この主張を説明する上で筆者が出している以外にもいろいろ具体例が考えられない?」

こういう問いを投げかけることで、読みを深め、理解を深める。

 

さて、では国語という科目で問題を解く上で客観性はどこに必要かというと、それは「問題を解く時」である。

設問に取り組む際は、あくまでも本文に書かれていることに忠実に解かねばならない(一部の大学を除く)。ここで主観を抜群に発揮すると、何言ってんのお前状態になって点数に結びつかない。

 

この辺は明確な線引きがあるわけではないと思うのだが、独学ではなかなか難しいのではないだろうか、と思う次第である。

いや、正確には独学でできる人は放っておいてもできるので、塾で国語をやる必要がほとんどないという・・・。