あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

ロトのテーマに思う

私の親はゲームを買い与えてくれることはほとんどなかった。

ファミコンはおそらく母が自分でやる目的で買ったのだろう、物心ついた時にはすでにそこにあった。スーファミは近所の友達の家で見ていて、ちょっと経ってから自分のお年玉を使って買った。ゲームボーイはどうだったかな(これは中古を買ってくれたかもしれない)。プレステは小学校の時に発売されたが、確か買えたのは(自分で買うしかないので)中1くらいだったろうか。みんなプレステやってる頃、スーファミドラクエ6をやっていた記憶がある。

 

ファミコンではマリオやファミスタ、麻雀など(小学生の時から麻雀ができていたのはこれのせい)。ドラクエ2ミシシッピー殺人事件、ドラゴンボールのカードシリーズ、テトリスやインベーダーなどは相当にやり込んだ。外で遊ぶのは元々好きではなかったし、勉強をするタイプでもなかったので、大体学校から帰ったらゲームばかりである。スーファミは超サイヤ伝説、ドラクエ5・6・3。プレステはもうとにかく幻想水滸伝2。学校休んでやりこんでいた。

親が渋い顔をするのも分かろうというものだ。そういうサブカルチャーは犯罪者予備軍、くらいに思っていたような気もする。実際、そういう見方は世間的にも昔はあったわけで。

 

そう考えると、ゲームミュージック、特に自分が幼少期から親しんでいるテーマ曲が世界の舞台の大きな場面で流れたのは隔世の感がある。ただ嬉しいというだけでなく、なにかこう、心の底にストンとくるものがあったというか、感慨深さがあった。

 

まぁちょっとそんなことを思ったりもしたのである。

 

 

思い立ったが吉日

勉強に本腰を入れるのに早い遅いは本来ない。思い立ったが吉日。

ただし、中3の冬に高校受験。このスケジュールは基本的に動かせない。やっと気持ちを入れて勉強し始めるという頃には、行きたい高校に間に合わない、ということもある。

 

間に合うかどうかという表現はどうも好きではないのだが、現実問題として難しい志望校設定をしている生徒はいる。そういう場合に引き上げられるのか、現実ラインに切り替えていくのか、というのはなかなかに難しい判断で、その生徒をよく見て、コミュニケーションをどれだけ取れるか、という点にかかっている。一概にどうしたらいいというのが言えないものだ。普通なら現実的に合格できるラインまで下げる、という手を打ちたいところだが、本人次第では伸びる例もたくさん見てきた。そしてその伸びで合格しても、結構進学してからもなんとかなるものである。

 

早めに塾に来てほしい、というのは本音なのだが、それは「勉強の姿勢」が整っていない状態で数ヶ月だけ受験のために勉強する、というのが将来を長い目で見ても不健全に感じるからだろう。そして、「勉強の姿勢」をいつどこで教わり整えることができるのか、というと、これがなかなか難しいのである。

中学生の数学

数学については、まず一にも二にも計算力ありきであるのは当然として、その計算力というのは当該単元に留まるものではない。

例えば、「37✖️11」を見た時に、暗算でパッと計算できるかどうか(正確さのために筆算するかどうかとは別問題で)、単位変換をスムーズに行えるかどうか、正負の四則演算がスムーズにミスなく行えるかどうか、分数計算を苦にしないか(むしろ困った時に分数で処理するか)、等々。数学ができる、という人が無意識にできている部分を能力の一つとして捉えて全員チェックをかけていく。定期テスト80点レベルの生徒でも何かしら甘いところはある。90点を割らないくらいの生徒であれば、それなりにその辺りの力量は備わっている感じがある(おおよそ)。

 

個人的には、文章題、という区分けをあまりしたくないところである。計算の後に文章題、というのは何か違う気がする。ただの計算処理を特別視しているというか、文章で問うことを特別視しているというか。。。

この辺りはこの数年試しをしたのもあって、単元の導入から抜本的に変えてしまうことでいい結果が出ている(と言っても、熟練の先生方からすれば目新しくもなんともないが)。その辺を今後さらにブラッシュアップしていきたいところだ。これは算数においてもいくらか注意点は増えるが同様のことができる。

 

関数には力を入れる。「関数とは何か」を専門的に突っ込んでいったらキリがないが、こういうものだという説明から入る。少なくとも大学受験まではその根本が通るようにしておく必要がある(これは大学受験をしないor受験しても数学を使わないという生徒でも同様)。関数がわかるかどうか、できるかどうかが数学の一つの山場であり、一番重要な点だ。一番時間をかけてでも、綿密にベースを作る。

 

図形はどうか。よくセンスがどうの、幼少期の訓練がどうのと言われる分野なのだが、そういう言い訳をしていては塾の先生は務まらない。これも、独特とまでは言わずとも練習のしがいはあるところで、いかに応用を利かせられるようにするか、というのが一つポイントとなろう。

 

 

さて、一番大切なのは、「算数の主要部分ができているかどうか」という点。単位もそうだし、分数小数の計算が自在にできるとか、比例反比例の原理とか、図形の基礎的な見方や処理など。中学生の数学でも、まずはそこからの確認が第一である。最初に算数範囲のどこをどう確認するか、それが塾での指導の入りで大切なところである。

中学生英語の基本方針

まず基本は教科書だ。教科書をメインテキストに、文法の教材を補助的に使うイメージ。ただ、目標にもよっては中3は文法と読解それぞれに教材を用意、夏休み以降についてはどのレベル帯の生徒でも基本は受験に向けて教科書以外のものをメインに据えることになるだろう。しかし、大抵は11月の定期テストまでが内申点に響くので、教科書も扱いながら、という形になる。

 

文法的な理解と文章読解を融合させていく上で、教科書は欠かせない。英単語を覚えるのも、基本は教科書ベースだ。有機的に覚えられるように工夫を入れ(ひたすら書く、みたいな作業は禁止レベル)、ひとつひとつを正しく発音するというのを基本にしながら、必ずチェックを入れる。

このチェックというのが大切で、英語が苦手という生徒であれば「単語を覚えてこい」という指示で覚えてこれるわけではない(それでできるのなら苦労していない)。覚え方を色々試しながら覚えてもらってそれを必ずチェック!チェック!チェック!とやっていく必要がある。英語がそこそこできる(偏差値70以上とか)生徒でも、発音が怪しい、という生徒は多い。その辺りも必ずチェックを入れる。

 

4技能をバランスよく、という話ではないが、私の英語指導は基本的にはそれに近い。4技能指導は当たり前だと思うのだが何故か評判が悪く、よく非難されるのだが、、、

 

まずは文法、という考え方は間違っていない。その文法を身につけるための手段として、音読であったり、英作文であったり、そういうものと合わせて取り組むのが有効手である、という話だ。

 

 

で、以上が基本方針なわけだが、だいたいはまずアルファベットの書き方から入るだろう。一部の天才型人間以外は、書く字と思考はある程度連動すると思っている。綺麗に書ける必然性はないが、はっきりと認識できる文字をきちんと書けるか、というのは重要な要素であると考える。そして、アルファベットをきちんと書けるか、というと、これは結構怪しい子は多い。自分で書いていて、nとh、aとu、vとu、bとdなどはよく間違える代表例だろう。このあたりを厳しくみていく。自分で認識できる文字を書く、そんなところから確実にやっていきたい。

 

 

 

字数を詰める

「200字以内で要約せよ」という問題に対して、一発で200字以内にキレイに収まるような文章を書くのは難しいものだ。かなり熟達してくれば200字以内は一発でもいけるようになるが、大学受験生ではそこまで練度を高めるのは難しいと思う。

 

たいていはまずこれだと思う要素を読みながらピックして書いていく。これで300字前後くらいである程度の形を作る。

そして詰めである。最初の詰めの段階ではまだ本文とは二人三脚。重要事項の漏れがないかどうかを確認しつつ、言い回しや修飾語句、文同士の接続で少しでも短くできないか、というのを検討して直していく。

同じ語句を連続で用いている場合、指示語を用いている場合は、この詰めの段階で工夫をする。同じ語句を連続で用いている場合、一度の使用で同じ文意になるよう工夫を凝らす。指示語は用いず、これも工夫を凝らして文意が変わらないように気をつけて直していく。

そうこうするとあと10字前後詰めれば、くらいまでくるので、さらに接続助詞や同意表現の工夫をして、句読点の切り方も最小限まで詰めまくって収める、というのが筋である。

 

さて、だいぶ漠然と書いていることに気づかれたろう。

「要素をピックしながら読む」「工夫を凝らす」「気をつける」など、非常に曖昧な言い方である。具体的にどうやるんだよ、とツッコミを入れたくなる。

その辺は私の飯の種なのでナイショ……と言いたいところなのだが、実はここの指導が生命線になる生徒はそう多くはない。もっとも、生命線になる生徒に対してはそれぞれの現状に応じて指導の仕方を細かく変えているので、普遍化しづらいというのはあるが。

生命線にならないとはどういうことかというと、要約を字数制限を厳しくしてギリギリまで詰める、というのを厳密にやるべき生徒は、たとえば旧帝大の国語にぶつかったり、一橋大のように直接要約問題が出るところを受験したり、小論文のガチ試験をやらねばならぬ、などという感じで限られてくるのである。国語の試験は共通テストだけ、という生徒も少なくないため、その場合はそれほど厳密にせず、いい感じで文を作れるように、そして同じことをいろんな言い回しで表現できるように(←これ大事)、塩梅を加減しつつやってもらう。

 

生徒それぞれに、受験の日を迎えるまでにどれほどの力を身につけておく必要があり、何を優先しなければならないのかは大きく違ってくる。同じ素材を使っていても、求めるところがそれぞれに違う。

 

個別指導というのはかくあるべき、というのを実践しているのである。

 

雑記(2021年7月17日)

抱っこしながら文章を書くのは一筋縄ではいかないのだが、抱っこしないとなかなか寝ないお年頃でもある。バランスが難しいものだ。

 

 

大学受験においては、自分の志望大学の過去問題に取り組んだ際、全然できないということは往々にしてある。特に国語は難しい国公立でその傾向は顕著で、もともとできる生徒は最初からそこそこにできるのだが、苦手にしている生徒なら多少勉強したところでほぼ0点、みたいな答案を書いたりする。

 

これは文章が読めていない、というよりも(もし全然読めていないようなら、受験校の再考を考慮に入れなければならない)、その設問で求められているものをキャッチできておらず結果として0点であったり、書いている日本語が時間に追われるあまりにチグハグで日本語として成立していない、みたいなことが起こったりなど、まあ色々原因はあるものである。大抵は、具体化と抽象化、どちらを問いが求めているのかという点が甘いと答案としては無惨なことになりがちである。

 

したがって、本文の読解はもちろんのこと、そういった言葉の扱い方についても詳しくやっていく感じになる。文章に向かう際の頭の働かせ方、設問に向かう際の頭の働かせ方、そういうのを実践しながら習慣化するように訓練していく。

 

途中で投げ出さずに頑張れるかどうかがその大学の受験資格と言ってもいいだろう。

 

雑記(2021年7月16日)

年度末というキリのいいところで退職して、昨年度までいた教室とは完全に無関係者となっている。

まぁそれでも1年2年と見てきた生徒はいるわけで、心残りがないわけではない。余計なお世話であり生徒保護者からしたら途中で投げ出された気持ちを持っているかもしれないのだが、心配になることがないでもないのが実情。

おそらく来週から夏期講習なのだろうが、大丈夫なのだろうか。教え子が講師やってるから聞こうと思えば事情を聞けなくもないのだが、そこはあえて線引きをしっかりしておかねばならないと思う次第である。

 

今の仕事も相応に忙しい。子供の世話は妻に任せる部分が大なので、せめてもということで家事全般と出講先の仕事、そしてプラスアルファの仕事という感じ。妻がどうしても寝たい時間は子供を抱っこしながら仕事、という感じである。こうなると、仕事は当然手を抜けないわけで、だいたい家事の中でも特に苦手な掃除関係は手抜きが酷くなっていく。次に料理。洗濯などはどう手抜きしてもやることはさほど変わらない。

 

プラスアルファがどんどん膨らむ中、少し時間の使い方を考えないといかんなぁという今日この頃である。