あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

オンライン指導の難しさ

このご時世、先の見通しが立たずになかなかに大変である。そもそも、9月以降順風満帆に学校は始まるのだろうか。その辺りからして怪しい空気が出てきている気がする。

 

大学受験生はまぁ学校の授業がどうであれ影響は大きくない(理科・社会はまだ終わっていない可能性が多々あるが、ここまできたらあと一息をなんとかかんとか始末すれば済む)。むしろ、影響が大きくないように学習できるようになっていることが受験の場で戦えるかどうかという力でもあるので、頑張ってもらえればいいのだが、義務教育中で高校受験を控えている中3はそうもいくまい。公立中学校ならまだ重たい単元が9月以降目白押しなことから、学校の授業がストップしてしまってはコトだ。

 

オンライン、というのは割と手軽に言われていることであるが、設備投資がそもそも大変、教員がツールを使いこなすのが大変という課題はあれど、そういうのは1年以上前から備えておけたはずなので、クリアしているとしよう(容易にクリアできる問題でないのは明らかで、無論、クリアされていないところが大半と見受けられるが)。

 

ただ、オンライン指導の肝は、指導する側ではなく、指導を受ける側の準備と意識である。

 

家庭のネット環境はどうか。例えば私の家では、仕事で使うというのもあるが、夫婦揃ってヘビーに回線を使うことからも高い金額をかけてぶっといのを引いている。こういう家庭ならまあいいのだが、マイノリティであることは自覚している。塾に通わせるくらいのご家庭であればまずWi-Fiは使えるのだが、速度や容量的な不安は絶えずつきまとう。ただし、これは金をかければ解決する問題だ。PCにしろタブレットにしろ、金をかければ解決する問題なので、まだなんとかなる(最悪、バラまけばいいのだから)。

最大の課題は生徒自身のオンラインに向かう意識であり姿勢だ。自分から積極的に動画授業を見て勉強できるような生徒ならそうそう心配は不要であるが、そういう生徒はごく一部だ。偏差値70を超えるような層でも、全員がそのように勉強できるわけではない。

実際の教室で、対面で、姿勢を正すところから、鉛筆の持ち方から指導しないといけない生徒はいる。さらに、これは感覚的な問題なのだが、どうも画面越しと直接隣にいるのでは、特に小学生には顕著なのだが生徒自身がだいぶ違う感触を持ってしまっているということだ。単なる慣れの問題なのかもしれないけれども。

また、そういう面で問題ないとしても、「勉強する場の空気」というのはお金を出してでも子供が勉強する上では重要なものだ。そもそも、子供が家で自発的に、また言われたくらい、見られているくらいで勉強できるのであれば、巷に溢れる学習塾の大部分は存在理由がなくなって潰れてしまうだろう。授業が一級品でも自習の生徒がくっちゃべってうるさい塾には通わせたくないように、「場」というのが、勉強に向かう上では重要になってくる。オンラインでは、先生が見ているという意味で「場」の一部分はあるが、いつもの空気というものはそこにはない。これが高校生や大学生ならなんとかせいやと思わなくもないが、実際は大人でも難しいものだろう(リモートワークが会社で仕事する以上に捗っている人は少数派であると思う。自覚があるかは分からないが、とても優秀な人だ)。小中学生には実際とても難しい。これは生徒を見てきて、去年色々試してみての実感である。

 

無論、ここまで述べてきた課題をどうにかしていくというのも必要なことである。今回の新型コロナにかかわらず、今後も疫病の類は出てくる可能性もあるし、日常的にもインフルエンザが蔓延する、台風や大雪で閉めざるを得ない、といったものは発生するのだから、代替策をよりベターな形でできるように作っておくのはリスク管理としては必須だ。

ただ、かなりの準備がいる。その準備を去年からしていればおそらくは大きな問題もなく、ある程度代替の役目は果たせるだろう。していない現場はかなり難しくなるかもと思う。

 

なお、多くの生徒は、という話なので、一部にはオンラインの方が性に合うという生徒もいるのだ。

塾などでは、そういう生徒にはどんどんそういうのを活用できるようにするのが時代にも合うと思うし、生徒にもよいことと思う。学校はシステム的にも個々に合わせた柔軟な対応はかなり大変だろうが、塾というのはその点合わせて動きやすい。その辺りのメリットをうまく活かしたいものである。

 

 

こてん

今日は珍しく古典多めの授業など。

 

接続助詞の重要性をくどくどと。助動詞を優先して助詞がおざなりになることが多いのだが、だから意味分からなくなるんじゃぜ、という感じだ。

 

このあたりは指導を見直してもいいのかもしれない。体系を組み直す。そんなことを考えながら準備し、授業に臨むという感じである。

 

基本的な勉強の構成としては、それぞれの文法事項に分け、ひとつの項目が終わったら次の項目へ、という構造のテキストが多いし、そういう手順で学習している受験生は多いと思うのだが、どうにも違和感はあるものだ。重要度の軽重は項目ごとに分けにくいとはいえ、「ひとまずなんの話かを掴めるように」となると、助動詞、助詞、敬語、和歌というような分類で学習するようなのはどうにも非効率でもあるし、読解に資するかというとちょっと違うと思うのだ。

明らかに分からないと困る語、識別を間違えると意味が分からなくなる語などは品詞の区別なくあるし、文章を読む上では助詞や敬語のキャッチはかなり優先度が高い。

 

ということで、色々と意欲的な問題集は出てきているのだが、なんとか自分でも横断的に組み直してやってみたいと考えている。

 

 

 

 

式典の意味

祖母が他界し、葬儀までひとまず終えた。

 

あまり経験がないのだが(そういう経験は多くなくてよいのだが)、どうも人の死はその後が忙しない。悲しむのは訃報を聞いた一時で、そのあと式まではバタバタしていて悲しむ暇もない。顔を見たときもそうだが、穏やかにしているとその場で涙が出てくることはなかった。祖母には何かと世話をしてもらっていたし、もっと泣きじゃくるものかと自分でも思っていたのだが、その場になるとどうにも感情がぐにゃぐにゃとしたような感じがして、なにか栓がされたような感じ。

葬儀が終わり、出立を見送ってからであろうか。そういうタイミングになってズシンと来るものがある。今ちょうどそんな時期だ。

 

故人を偲ぶ、というのはやはり時間を置いてからなのだろう。人間の感情というのはかくもうまくいかないものであって、何かを思うにも時間が必要なのだと思い知らされる。

 

葬儀の場では、不謹慎ながら自分の死についても考えていた。

結婚し、子供ができた。自分の命より優先すべきものができたということでもある。人間はみな死に向かって歩んでいるが、その歩みを進めたようなものである。

子供には十分な養育費が必要であることが職業柄分かっているので、公教育オンリーならともかく、ある程度潤沢な資金が残せるように、自分にいざということがあった場合を考えて生命保険を見直した(というよりもともと保険は差額ベッド代と三大疾病をカバーしていたくらい)。

 

式は簡素でよいが、やってくれたほうがいいようにも思う。式典はそこにいる人のためのものではないだろうか。良くも悪くも、気持ちになにかしらの区切りを持つためのもの。私を偲んでくれる人が1人でもいるのであれば、その区切りを持つためにも、やってもらいたいと思う次第である。

 

いずれ訪れるものをどう迎えるか、普段は考えないのだが、ね。

 

ふんわり国語

京大国語の演習は、基本的には「ふんわり読む」「緻密に読む」練習、「ふんわり書く」「緻密に書く」練習を中心にしている。

 

緻密に、はなんとなく分かると思うので、ふんわりの方を少し解説したい。

よく国語を感覚的に解いている人がいると思う。クラスに1〜2名はいるイメージだろうか。国語の勉強をろくにしてないけどやたらできる、みたいな人。

私の「ふんわり読む」とは、その感覚的な読み方に少し論理性、緻密性を加えて掴む読み方(?)だ。ただ感覚に頼るのではなく、文章の色や強弱をある程度論理的にキャッチして大きくキャンパスを塗っていくイメージ。

それほど特殊なことをしているわけではないが、これがなかなか難しい。

 

なお、これは元々がその感覚的に解いている人に向けたやり口で、元々国語が苦手な生徒の場合にはまた別のやり方がある。

感覚一本で向かうより、高得点を取る精度はこちらのほうがよい。

 

国語が大の苦手であった生徒(感覚も論理もない)がこの域になるまで、直接指導で約3年かかる。この生徒の努力も凄まじいものがあったのだが、このあたりをもっと汎用的にできないだろうか、と色々考えているところである。

発音

英語は発音が大切である。

発音記号がどうというのも確かに大切だし、学問的な興味関心を深めていく意味でも教える意義はある。記号だけ見て発音が分かるのはなかなか画期的である。ただし、優先度としてはそこまで高くはない。昔と違い、今の生徒たちであれば、辞書なりスマホなりでネイティブの発音をすぐさま耳で聞いてしまうので、それを真似るのが早い上にまず身につける上では敷居が低い。大体塾で英語を教えることになる場合は、多くの生徒は英語が苦手・嫌いというコンボで来ることが多いため(無論得意で伸ばしたいということもあるが絶対数的な問題)、まずは習得の敷居の低いところから入りたいのである。

 

ネイティブの音声を聴かせて、リピートさせて、という練習はあるのだが、大前提として、目の前の講師がそれなりに喋れないと困ったことになる。「自分ができないことは教えられない」のである(この業界は自分ができないことを「教える」ことが結構まかり通っているので気をつけたい)。

 

ま、そんなこんなで、私はまた英語の専門性を高めると同時に、そっちの方ももうちょっと鍛えないとなぁということでクソ忙しい最中でも手出しをしているという感じである。

国語・理科・社会

中学生の塾選びでは、数学と英語の需要が多い。

「国語は塾でやるものなの?やってもやらなくても変わらないでしょ?」「理科と社会は暗記でしょ?」というところから、結局のところは数学と英語に寄りがちである。

とはいえ、この辺りはだいぶ人によっても感覚は違う。

 

まず、国語については、きちんと学習できるかどうかで一番違いが出る教科だろう。一定のレベルに達するまでは独学が難しい教科であるが故に、正しく(この正しさは一つではなく色々なやり方があるが、言葉に誠実に向き合うという共通点はある)勉強できるかどうかが鍵になる教科である。

現時点で自分でうまく勉強できないのであれば、塾で学ぶことにはかなり効果が期待できる。

ただし、国語をきちんと指導できる講師がその塾にいることが前提である。この前提が案外難しく、指導のシステム如何では指導しづらいというのもあって、相当に選ぶ時点での吟味が必須である。

 

理科と社会については、単純な暗記科目でないことは最近ようやく広まってきただろうか。ゆとり教育が終わった改訂からだいぶ思考を試されていたが、最近は特にそういう感じになってきた教科である。

暗記するのは第一段階だが、これにもやり方というのがある。たとえば、理科で「玄武岩」を習った時に、「リカちゃんあせってゲロ吐いた」だのなんだのと語呂を当てたりすることもあると思うのだが、玄武岩が黒っぽいというところまで暗記としては求められる。この辺で覚えることが多くて「うえっ」っとなられることが多いのだが、そもそも日本語名で玄武と名付けられている(翻訳されている)のだから、当然黒色に決まっとるやろ、というところから、方角の話や天文学の話、中国の歴史の話にまで枝を広げられる。複合的な要素を噛ませることで記憶に残りやすくする。暗記の技術でもあり、他教科にも好影響が出る、まさしく「賢くなる」勉強の手法である。

次は覚えた知識を活用する段階だが、良くも悪くも、高校受験レベルだと「思考問題のパターン」を大量に刷り込むことで乗り越えてしまえる(最難関レベルは除く)。ただ、それをやってしまうと十中八九大学受験で、さらにその先で苦労するというか無理になってしまうのは目に見えている。この段になると、生徒が発言できない形式の授業ではキツくなってくる。生徒の思考を追い、思考の道筋をつけていく指導が必要になるからである。

 

当然、数学も英語も重要度・緊急度が高い。特に英語は予想通り、教科書改訂でかなり無理がきているようだし、手当をしていかなければならない場面が多々あるし、個人的にはもうイチから仕込み直した方がいいだろう、という状況も多々見てきている。

 

こういうのを踏まえた時に、教科ごとに時間を切ってやっていくのはどうにもなぁという感じになってきている。

季節行事

家庭のあり方が変わってくることで、季節の行事・習わしというものもその形を変えてきている。文化というのは流れゆくものであるから、それ自体の良し悪しを語る気はないのだが、教育という側面からいけば、「そういうものがこの国には伝統的、また現代にも風習として残っている、実践されている」ということは触れさせておきたい。

リアルな話からすれば、現代文など文章を読む上で歴史や習慣の知識は切り離すことができないため、そういう点での対策対応というものはある。現実問題として、「イエ」や「クニ」、またナショナリズムというものを考える土台として、知識としてあったほうがよい。また、そうでなくても、徐々に薄れているとはいえ依然として強く残る家庭や地域はあるわけで、これが今の10代の子供たちが大人になり、老齢になったとしてもそう簡単に消えゆくものではないからこそ、知っておいてもらいたいという考えもある。

 

例えば、私は前職では、年末の正月飾りを教室で簡易的なものではあったがちゃんとやっていて、それも12月28日に飾り付けていた。正月飾りをいつ撤去するか、鏡開きはいつか、というのも実はちゃんと日を見てやっていた。お盆や三ヶ日に開けることがなかったとは言わないが、それでも極力その辺りは休みにするようにしていた。

「勉強に休みなどない」という意見は分かるのだが、机に齧りつくのが必ずしも勉強ではなく、「なぜそこを休みにするのか」というところからも勉強というのは始まる。

 

お盆休みを取るなんてバカバカしい、と考える人がいるのも分かるし、ここは絶対に休みにすべきだ、という意見も分かる。

 

これを言って理解されるかは分からないが、どういう意見でも構わないので、生徒自身が「まず自分の意見を持てること」が大切なのではないかと思うのである。ものを知らなければ意見を持つことはできない。意見というのはただ表層的に言うだけではダメで、自分なりの根拠を持つものであるから、そのためには大なり小なり、知識と経験を持たねばならないものだろうと考えるのである。

 

で、まぁどう過ごすかというのは置いておき、私はその辺けっこう重視をするタイプなので、世間の空気感と合わせて休みにするところは休みにする(というか墓参りやら何やらやってると働いている時間もないわけだが)。だから、盆暮れ正月は基本的に休むかな、と。そういう意味で、GWは休みにしなくてもいいけど授業強制をしない形で開けるのは普通の感覚(土日祝日しか休めないご家庭にとっては長期旅行の機会でもあるので、子供のスケジュールに縛りをかけたくはない)。GWの場合は部活がストップしないことが多いので、中学生くらいなら家族で出かけるというのも小学生に比べるとグッと減る印象だ。

 

無論、いろんなご家庭があるので、盆暮れ正月にあえて塾を開けるというのもありだと思う。両親ともに仕事で不在、というご家庭もあるのだから、あえて塾で預かるというのはありだと思うのだ。そのへんの時期に出席に強制をかけるのは賛同はしかねるが、いろんなコンセプトがあっていいと思う。