あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

なぜ古典を学ぶのか(1)

考えがまとまらないまま垂れ流しをする。読みにくい文章になると思うので、どうかあらかじめご了承願いたい。

なお、学習指導要領は小中高と一通り目通しはしてある(量が量だけに細部まで覚えきれてはいないので、言及する際はちょいちょい確認しつつ)。

 

 

古典を学ぶ意義の一つとして、文化の継承という側面がある。これは学習指導要領でも記載がある。

 

日本という国は世界的にもけっこう珍しくて、古くは中華文化圏、最近であれば西欧列強の影響を受けつつも、それらを受容し独自のものとして歴史の断絶のないまま現在まで続いている。

伝統というのはすでに陳腐化していると認識されるものもあるだろうが、長い時間を経てなお現在に残っているものというのは、いずれの時代にも「消え失せなかった理由」というのがある。それは世間一般の教養として権力者が利用するのに都合がよかったというのもあったり、インテリを気取りたい人のためのツールであったりという負(?)の側面も時代によってはあったかもしれないが、とにもかくにも残っている、という事実が重要だと考える。

吉川英治の『三国志』の中で、曹操が「老人が好きで尊敬する」という感じのセリフがあった。理由として、悪人は長生きできないから長生きできているだけで善良である、というようなことを言っていたと思う。現代の日本ではピンとこない感覚であるが、吉川英治がこの作品を書いていたのはちょうど日中~太平洋戦争の最中、しかも新聞連載である。当時の平均寿命など考えると、たしかにそういう側面はあるかもしれず、このセリフに少し裏があるのでは?と考えることも面白い。この話から、老人がその歳まで生きている、というのはそれ相応の理由があってのことなのだな、と考えたのは確か小学生の頃だったか、もしくは中学生の頃に読み直した時であったか。

 

話が逸れたので戻す。

で、時代変動の荒波にもまれながらも残ったものを、次世代にも継承させたいという腹づもりがある。古典はたとえば人生訓であったり、日本人の深層に切り込むものであったり、日本的な感性の自覚、中華を中心とする文化圏にありながらも独自性を持ち得た日本の強さ、というのが溢れているものだと思うのである。

これを一部の日本人だけが研究や趣味の領域だけで残していこうとすると、早晩消滅していくものが多々出てくる。なぜか。

研究者や、古典文学を読むのが好きです、という人間はほんの一握りであって、ごく少数の好事家だけのものとなった場合、継承者不足に悩まされる。いずれは後継者がいなくなり、散逸していくのは予想がつく。図書館や博物館に大事に保管していればいいと言われそうだが、そもそも「大事に保管する」必要性を感じる人間が少なくなれば、いとも簡単に消し去られるものである。「なんだか細かいことはよくわからないけど、昔から続いてて日本独自のものだからとりあえず大切にしておこう」という感覚を持つ人間が多数派を占めていなければ、いずれは消えゆくことになってしまう。故に、義務教育の中で、「我が国の伝統的な言語文化の世界に親しむ」ということが掲げられているのではないかな、と考えるのである。

 

世界はグローバル化が進んでいて、国境はなきに等しい、という傾向は今後も進んでいくことになるのだろうが、少なくとも現在においては、基本的には日本という国の住民、日本人という民族、という扱いを受ける。それは人種や出生地を区分けしないというシステムの問題ではなく、他者の見方そのもののことである。

日本という国は歴史がある、という思われ方をするのはよいのだが、それは歴史上の人物やら事件やらというような単純な知識に収斂される矮小な話ではなく、ひとりひとりが日本の歴史を「持っている」、そんな状態にしたいのではないか、と思ったりなんだりするのである。

 

これがいいことかどうかは別であるし、私自身、民族性であるとか国家であるとかそういうものにこだわりが薄い人間なので、そのあたり自体は上記に述べたような主義主張は持ち合わせていない。

ただ、日本的な感性、という話を先程ちょっと挙げたが、これって結構大切なことだ。人間というのは言語を持ち文化を持つ存在であり、その深浅によって他者が勝手に判断を下してくる、というのが社会に出てからの実感である。単純な例を出すと、いかにも語彙力のない、軽薄な、中身のないスッカスカな文章を見れば「こいつは馬鹿だな」と思うだろう(失礼)。そういうことである。

使う言葉ひとつで判断されるのが世の中というもの。そして、アウトプットされる言葉はその人が積んできた経験であったり、勉強してきた蓄積であったり、センスであったりする。そしてなんだかんだで日本は日本の中だけで人生を終える人間のほうが多いし、今後よほど国力が傾かない限りはそれは変わらないと思われる。そうなると、自分が言葉を発する相手、その言葉によって自分を判断する相手はだいたい多くは日本人であるだろうし、そうなればいわゆる日本的な感性、というのが言葉の端々に表れる、そういうのは世の中で生きる上で有用なのではないか、と考えるのである(強引)。

経験も、勉強の蓄積も、センスも、後天的に磨けるものである。古典の学習(現代語訳ではなく、あくまでも素の文章)を通してそういう力を磨けるかどうか、というのがひとつ大事な観点だと感じるのだがどうだろう。

 

では日本的な感性とはなんだろうか。そして、古典をそのまま学ぶ意義は他になにかあるのか(あるのだけれど)。

 

次回へ続く。