あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

なぜ古典を学ぶのか(2)

 

ip-honpo.hatenablog.jp

 

つづき。

 

日本的な感性とは何だろう。

イメージするのは、「わびさび」であるとか、四季を言葉でなく身体そのもので感じ取るとかであろう。自然に対する向かい合い方が西洋だけでなく東洋の他の地域とも違うという感触がある。

古典の指導において、「あはれ」「をかし」は永遠の課題になるのではないか。どう気持ちが惹かれるか、というところに着眼して説明はできるのだが、究極のところ、これらの言葉を感覚で察せられるかどうか。「趣がある」などと訳されても、分かっているのかどうかが怪しく、確認してみると9割くらいはその意図するところを掴めずに(もしくは掴もうともせず)型通りに訳だけ書いてみました、という感じである。

 

お盆に張った水、その中心に桜の花びら1枚。

 

この情景を思い描いたときの侘しさ、というのを感じ取れるかどうか。

 

それが何の役に立つのか、という疑問が出てくる時、「そもそも役に立つかどうかという観点がナンセンス」というのはごもっともであるのだが、だいたい話が平行線を辿ってしまう。

 

個人的な考えを言おう。

他者とのコミュニケーションが重要である、というのはよく言われることだ。私はみんながみんなそういう力をつけるべきとは思わない(コミュニケーションが苦手でも生きる術はいくらでもある)。ただ、「重要視されている」世の中においては、まぁ最終的に得意になるにしても苦手であるにしても、「得意になるかもしれない土台」は教育の中で培っていくのがよいのではないかと思う。

他者を完全に理解することはできない。ただし、近づこうとする・寄り添おうとすることはでき、それがコミュニケーションの肝ではないかと思うのである。人間は感情を持つ存在であって、行動が感情に縛られることの多い存在である。となれば、他者の感情に寄り添おうとすること、それがコミュニケーションではないかなと考えてもよいのではないだろうか。

では、寄り添う術は何かないか。軽薄な表面上の言葉だけでは人はすぐに察する。口先では良さげなことを言っていても愛情の欠片もない指導者を生徒がすぐに見抜くようにだ。

気持ちをわかろうとするには、色々な人間の内面、見て聞いて感じること、そういうものを言葉だけでなく気持ちの芯でスッとわかる、という経験のストックがあればあるほどよいのだと思う。

 

古典というのは日本人がこの日本の地で何を思い、どう生きてきたかを映すものであるから、日本人の根底に無意識に持っているであろう感性を直接汲み取る素材となりうる。長い歴史を持っているが故の利点で、全く違う思想を持っているように見えて、心のどこかで長い歴史上連綿と続く日本的な感性にお互いが触れ得るのではないだろうか。

ここで『枕草子』を例に持ってくるのはセンスがない上にちょっとズレるのだが、第百五十一段に、

二つ三つばかりなるちごの、急ぎてはひくる道にいと小さきちりのありけるをめざとに見つけて、いとをかしげなるおよびにとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。

という一節がある。この感性、当たり前ではないかと思う人が大半だと思うのだが、その当たり前と思うことこそが、古典世界から続く無意識に持っている感性と呼んでもいいのではないか(まあこの例はちょっと悪手なのであるが)。

 

さて、とまあつらつらと駄文を書いてきたわけだが、まだまだ考えが足りない。

内容が重要なのであれば、古典作品を現代語訳で読めばよいのではないか?という疑問が生ずるからだ。わざわざ将来使うことはないであろう文法事項を覚え、今後の未来の世界では日常的に使わないであろう古文単語を覚え、という必要はあるのかどうか。

ところがどっこい、この辺については、古文をそのまま、漢文を(できる限り)そのまま汲むのがよいと考える。理由として今思いつくのは2つなのだが、どうせ明日また書いているうちに増えるのではないかなと思われる。シェイクスピアの詩を、元の言語で読むか、翻訳で読むか、という感じに近いだろうか。

 

その辺は明日。明日の昼の大行事が終わればちょっとは気持ち的に一段落する予定だ。