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あいぴーの徒然なるままに

なぜ古典を学ぶのか(3)

 

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つづきつづき。

 

さて、古典を原文で学ぶことにどういう意義があるか。

 

まず第一に、「現代語訳は仮初の姿」にすぎないという点が挙げられるだろう。

 

源氏物語』「夕顔か」から一節引いてみよう。

 

夕暮れの静かなるに、空の気色いとあはれに、

 

この「あはれ」、どういう現代語訳を当てますか。

となると、たいていは辞書的には「しみじみとした風情がある」あたりの現代語を当てるわけです。この一節全体は、「夕暮れの静かなひとときで、空のありさまがたいそうしみじみとした風情があって、」くらいだろうか。

 

これ、よくわからんのです。「しみじみとした風情」って何?もっと分かりやすく言うとどういうこと?どういうイメージ?

 

困ったことに、説明されなくてもイメージできる人はできる。そういう人だと、イメージが湧かないということ自体が理解できない。

国語の指導はそこが難しいところで、たとえば私なんかはこの「しみじみとした風情がある」とはどういう状況か、当然ここだけでなく続きまで読んだ上でおそらくはこうであろうという具体的なイメージが湧き、説明はできる。ただ説明するだけでなく、そのイメージを共有すること、集団授業であれば様々に生徒が考えるイメージを引き出していろいろ比較吟味するような授業はアクティブで面白いだろう。私の天才的画力によるイラスト説明なども加えたりしたくなる。そういうゼミ形式は面白そうだな。

 

話が逸れてしまったが、要するに、現代語訳したところで分からないのである。当然、最初から現代語でこれを読んだところで、分からない、という生徒は続出する。分かったような感じがして、その実なにも分からない、そういう事態に陥るわけだ。

前回までに述べた日本的な感性とも強い関わりがあるだろう。感性を磨く、というと語弊があるかもしれないが、こういうところで立ち止まって考えることで磨かれるものがある。

 

ただ、これでは「現代語で立ち止まって考えれば済む」と言われそうだ。

 

 

さて、もう一つ古典をそのまま学ぶ理由があって、私が指導で常に意識しているのが、「一語一語緻密な思考をすることで、言葉への意識付け、言葉への向かい方、言葉に対する振る舞い方を学ぶ」という点だ。

 

古文も漢文も、一つの単語、一つの文字に対して突き詰める具合は相当なものである。

伊勢物語』第十段のこれ、

 

父はなほ人て、母なむ藤原なりける。

 

この太字にした「に」は断定の助動詞「なり」の連用形なわけであるが、このひらがな一字をどう取るか、ということに意識を向けるわけである。

現代文では、どうしても文章構成や内容に意識を向けていかなければならず、そういう中で一字一句に意識を払うのは困難である。付属語の使われ方を学び、使い方を習得するのは日本語を読む・日本語で表現する以上は必須の技術である。作文が苦手、という生徒の書いた作文は、主述が対応していない、句読点の切り方がおかしいなど色々なまずさがあるが、大抵は助詞や助動詞を適切に使えていないことに起因する「書けなさ」が目立つものである。英語を指導していれば和訳でやはり「なんか変な日本語」を書く生徒にお目にかかるのではないか。しかも結構なハイレベル帯の生徒でもだ。

これは、現代語だと適当でも「なんとなく勢い」で分かってしまう、察してしまうことができてしまう。古文では、それこそ「に」「ぬ」「ね」といったひらがな一文字の解釈を間違えると全く意味不明になることもある。適度に分からないものなので勢いで分かる、ということもあまりない。

 

 

言葉ひとつに対して、油断なく注意を払う。

表現する力、というのは世の中で生きていく上ではおそらく必須に近い能力で、これは後天的な学習で一定以上のレベルを身につけることは十分に可能である。

そういう意味で、私は高校で学ぶ古典は、プログラミングにも通じる部分があると思っている(私自身、PGやSEとして働いていたこともある)。一文字でも間違えると命令が通らない、という点において、文字や言葉への意識の払い方で共通していると見ることができるのである。

 

言語というのは繊細かつ大胆なもので、その繊細さを特に強く学ぶことができるという意味で、積極的に学習する意義はあるのではないか。

 

将来に役に立たない?そんなことはない。古典の知識そのものが役に立つこともまあまああるものだが(私なんぞそれで飯食っているので)、古典を学ぶことによる言語能力、言語への意識、感性の理解という面が十分にお役立ちになると思う。そこから副次的にでも古典の楽しさに触れてもらえれば幸いである。