あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。

鉄血宰相ビスマルクの名言とされるが、元の文を訳すとちょっと違う感じで、「歴史に学ぶ」というよりも「他者の経験に学ぶ」としたほうがいいらしい。まぁその辺は翻訳の技なのだろうか。

 

さて、自分はどうかと考えたときに、これは非常に怪しい。

歴史に学ぶという姿勢であろうとしているが、実際は自分の経験を元にしかしていないのではなかろうか。いや下手をすると自分の経験すら糧になっていないのでは?という自省をすることもしばしばである。

 

歴史に学ぶ、というのを考えた時に、これは原典通り他者の経験に学ぶという直訳でも構わないのだが、読書の意義というものが見出されてこよう。

書物というのは、これは歴史書に限らず、他者の思考、思想、知恵が記されたものだ。小説であっても、自分ではない他者の頭脳から生み出された、いや作者自身からも離れて出来上がる世界がそこにはある。いわば第三者の経験と呼んでも差し支えなかろう。

本を読む、というのは、こういった他者の経験値を自らのものにする、そういう営為であるとも言える。国語に役に立つかどうか、という観点で読書を考えるのは面白くないが、他者の経験を自分のものに、という観点で考えてみると、読書嫌いの人も少し有意に感じられるのではないか。

一人の人間の経験というのは、それはそれで貴重であるが、その存在の限定さの故に限界が見える。この世界にあふれる書物、これらに触れることは、経験値の拡張、もう少し大きく言えば自己世界の拡大である。さらにそうして広がる自己世界は、他を取り入れて作られたという点において、外界とのつながりをも持ち得る。

 

歴史に学ぶ、ということはそういうことであり、日本史やら世界史やらという歴史の学習に矮小化しないで認識することが肝要であろう。歴史とは人類の営為そのものであり、身近な人々の日常生活の一部を切り取っても、そこには歴史があるのである。

 

さて、自分はできているのかというと……すこぶる怪しい(大事なことなので2回ry)。周囲の大人を見ても怪しい。ましてや自分などは……。

折に触れてこういうことを考え、反省し、ではこの後どうするか。そういうことを考える。少し堅苦しい生き方な気もするけどね。