あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

勉強の競技性と塾の役割

今日から何日かは、一般に小学校〜高校の間に行われる勉強というものが、現実的にどういう性質を帯びているのか、善悪の判断なしに考えてみたいと思う。思考の垂れ流しである。

 

学校における勉強、ことに、学習塾でも行われるそれは、多分に競技的性質を持っているなぁ、とオリンピックを見ながらぼんやりと考えていた。

入試というのは自分との戦いでもあるが、決められた枠内に入るために一定以上のスコアでまとめなければならない。オリンピック的には、予選で○位以内に入れば決勝に進めます、的な感じだろうか。1位を決める競争ではないから、そんなイメージである。

 

ここでは、競技性を帯びてしまっているこの現状を批判したいわけではないし、本来的にはそういう性質はあってはならない、こうあるべきだという意見を述べるわけでもない。現状ではそうなっているので、それに対処するために塾というものが存在している、という現実を見たいわけだ。

 

さて、こういう状況下において、塾の役割はコーチであり、監督であり、トレーナーであり、練習環境である。

 

コーチや監督、トレーナーの役割は、選手が適切に練習できるよう、そして先を見据えた大局的な練習ができるよう、メニューを組み立てたり、コンディションを調整したり、時には技術指導をしたり、メンタル面のケアをしたり、そして最後は責任を取る姿勢・覚悟でいたりすることである。

受験の結果は生徒自身が負うものである、というのは真実であって、私も徹頭徹尾そう言っている。いや、正確には、「自分の人生は自分で負う」という姿勢を生徒がきちんと持つのが大切だという、指導の一環でもある。

ただ、それは生徒に対してそうというものであって、内面的にも外面的にも、「その生徒の人生に関わった責任」「大なり小なり結果を出すためにと預かった責任」「生徒の貴重な青春の時間を預かった責任」において、責任というものを指導者は負うことになる。それが自覚的であれ、無自覚であれ、否定的であれだ。

 

名選手必ずしも名監督ならず、というようなことはよく言われる。

自身が学校のお勉強大得意だったとしても、生徒の力を引き出して大得意にできるかどうかというのはまた別の能力である。無論、指導する人間なのだから大得意であることに越したことはないのだが。

授業というよりも技術的にはレクチャー、生徒が無意識下で行っている勉強所作(良いものも悪いものも)の言語化、基礎体力(学力)をつけるフェーズであればハッパをかける、といったように、やりようも自ずと決まってくる。

 

そういうことに自覚的な塾であるべき、というのは私の理論なので、私が将来創る場はそういうのを全面に押し出したものになるであろう。授業するのは好きだがなるべくやらない、そういう空間になるであろうと思う。