あいぴーblog

あいぴーの徒然なるままに

頭をよくする指導について考える

昨日書いた生活習慣、日々の所作の指導とは違い、また競技的高得点を取るための指導とも違う、学力面の向上に主眼を置いた、「根本的に思考力を伸ばす、頭をよくする」指導について考える。

 

ただ、学力向上、自分の頭でものを考えるという力が伸びれば競技的な得点力が伸びるのは道理なので、この二つは明確に区分されるものではない。たとえば、京大国語やそれに類する入試に対する対策という面では、結局はその「読んで考える」という力があればあるほど得点的には高水準で安定させることが可能なので、その力を伸ばすことがイコール得点力、合格への道となってくる。

 

学校で習う教科教育というのは、学校という場を出たあと、役に立つのかどうかという議論は定期的に巻き起こるのだが、根本的にはその教科書に書かれている内容が直接的に使えるかどうかは二の次である。直接的に使う場面はあまりあるまい。むしろ、この勉強を通じて、「いかに生きるか」というのを考えて実践できる力を身につけることこそが大切ではないのかと思うのである。

「それはそうだが、それは学校の役割であり、家の役割であろう」という意見があることは百も承知であるが、ここで面倒なことに、大なり小なり競技性が含有されていることが勉強嫌いの生徒にとってはそういった学びからも遠ざかる原因になってしまう。また、競技性に特化するあまりに、知の訓練が疎かになってしまっている生徒も現実には存在する(それが皮肉にも、トップレベルの高校に進学して勉強を怠っているわけでもないのに難関大に通らない生徒を生み出してもいると思うのだが)。

そういった点を細かく個人にフォーカスして見ていくのは、学校のシステムでは難しいことが多いと思う。

 

この辺りを塾でどうアプローチするのか、というと、これはもうこの数年で決められた塾のシステムをぶっちぎって色々実践したので(笑)、私の中ではある程度理論化されている。点数を取るという結果を出すことと、頭の使い方を見直していく、賢くなる。それは分離ではなく一体のものとして行っていく。それには生徒の言動にどうアクションを起こすのか、また起こさないのか。ある程度までは理論化しているが、個人に合わせていけば当然細部は異なってくる。月単位、年単位の流れを大きく掴んでおき、日々接する中で微調整微調整しながらうまく合わせていく。

勉強をする際に、頭が働いているかどうかというのは根本的には一番重要なのだが、実はあまり頭を働かせていないことが多い。機械的に漢字や英単語をひたすらノートに書き殴っているのはわかりやすい例だが、中学生が機械的に書く図形の証明問題、国語の抜き出し問題などなど、最低限求めたい頭の働かせ具合にはるかに届いていないことは日常茶飯事である。この辺りを極めて厳しく突っ込んでいく。授業、というよりも勉強に対する指導のあり方はいかに深く突っ込んでいくかにかかっている。頭を働かせて、脳みそを絞り上げるような発問ができるか、教材が提供できるか。

 

そういうところを自塾では磨いていきたいものである。